【更新】民主・鳩山氏の米紙寄稿を確認し、いわゆる「アジア通貨統合」の日銀検証レポートをまとめてみる

2009/08/30 20:12

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論文の発表イメージ先日【ZAR大好きの忘ビロク2-金鉱株で恐慌突破】の管理人である「ZAR大好き」氏から、【ツイッター(Twitter)】で宿題をもらった。日本の民主党内でアジア通貨統合の話が持ち上がっているので、日銀のワーキングペーパーの一つ【アジア通貨単位から通貨同盟までは遠い道か】と合わせ、【日銀レポートによる「なぜ好景気でも賃金は上がらなかったのか」】のように、その実現性について簡単にまとめてみてはどうか、というものだった。帰省前後にレポートに目を通し、回答記事を作るまでもなく「つぶやき」2回(「ツイッター」での発言。1回で140文字が上限)で回答が済んでしまった。その理由の一つが「あまりにも非現実的」というもの。よもやこんな話を本気で提示するはずもない、と思っていたら、先日なぜか日本紙にではなくアメリカの【ニューヨークタイムズ紙に「A New Path for Japan」】というタイトルで民主党の鳩山由紀夫代表が寄稿を行い、その中でアジア通貨統合の事がしっかりと書かれていたという。この件も含め、今寄稿の内容について様々な方面から失望と批判が寄せられているという報道([米紙に寄稿の「鳩山論文」相次ぎ批判 米国内の専門家ら(朝日)]、[鳩山論文に米専門家から失望の声])もあり、せっかくだからこの論文の翻訳とあわせ、日銀の検証レポートのまとめを掲載してみることにした。


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いわゆる「鳩山論文」
まずはニューヨークタイムズ紙に寄稿された、いわゆる「鳩山論文」。原文は【A New Path for Japan】

日本の新しい道

戦後、いわゆる「冷戦時代」においては、日本はいつもアメリカ主導の「市場原理主義」(現在では「グローバリゼーション(Globalization)」と呼んでいるが)に翻弄されてきた。市場原理主義者達が追及した資本主義社会においては、人間は「目的(end)」ではなく、「手段(means)」として扱われた。この結果、人間の尊厳が失われた。

どうすれば我々は国民の財産や生計を守るため、抑制の効かない、モラルや節度の無い市場原理主義と金融資本主義経済に終止符を打つことができるのか※。それが今、我々が直面している課題である。
※(「終止符を打つ」ではなく「(人間を)目的の地位に戻す」と読むこともできる)

このような時だからこそ、我々は「友愛」の精神、フランス革命のスローガンである「自由・平等・博愛(liberte', e'galite', fraternite')」の精神に立ち戻らねばならない。これこそは、自由主義の固有のリスクを緩和するのに有効である。

「友愛」の精神は、過度に進みすぎた現状のグローバルな資本主義を、伝統的な地域経済活動に適合させるための調整役を果たす原則と表現することができる。

昨今の経済危機は、「アメリカ型の自由市場経済学こそが理想的で普遍的な経済体制であり、世界中がアメリカ型の経済体制に同調すべく修正をすべきだ」という思想がもたらしたものだ。

日本では「グローバリゼーション」に対してどの程度適合すべきかについて意見が分かれた。ある人たちはグローバリゼーションを推進し、市場原理への適合が良策であると主張した。一方で、より穏やかなアプローチを好ましいと考え、セーフティネットを拡大し、伝統的な経済活動を保護しなければならないと主張した人もいた。小泉純一郎首相(2001-2006年)の政権以来、自由民主党は前者を、我々民主党は後者を主張していた。

どんな国でも、その国の経済は、長い年月にわたって形成され、伝統や習慣、国独自のライフスタイルを反映するものである。しかしグローバリゼーションは、経済に関係の無い価値観や、環境問題、国毎の資源的な制限などを考慮せずに突き進んできた。冷戦構造が終結して以降の日本社会の変化を振り返ると、私は「グローバリゼーション」が伝統的な経済活動にダメージを与え、地域社会を破壊したという表現が誇張では無いものと考えている。

市場原理においては人間は単なる「人件費」として定義される。しかし現実の世界においては、人間は地域社会の構成要素となり、生活様式や伝統、文化を具体化する根幹となるものだ。個人は、地域社会の中で仕事と職務を得て、それぞれの家族の生計を維持することができ、それゆえに尊敬を集めるのである。

「友愛」の原則のもとにおいてなら、我々はグローバリゼーションの犠牲となった農業や環境、医療など、人間の生命と安全にかかわるような分野を見捨てる政策を実行することはできなくなる。

我々は政治家として、グローバリゼーションで見捨てられる立場となった「比経済的な価値」に対し、注力をする責任がある。我々は人を結びつける絆を再生させ、自然や環境を重視し、社会福祉と医療システムを立て直し、よりよい教育と子育てへのサポートを行い、経済的格差を是正する政策をとらねばならない。

「友愛」の概念から生じる、もうひとつの我々の目標は、東アジア諸国によるコミュニティ形成である。もちろん、日米安全保障条約は日本の外交方針の基礎であり続ける。

しかし同時に、我々はアジアに位置する国というアイデンティティを忘れてはならない。加速度的に活性化する東アジア地域こそ、日本の基本的な「あり場所」として認識されねばならない。したがって我々は、アジア地域における安定した経済協力、そして安全保障に対する枠組みを構築し続けなければならない。

昨今の金融危機は、多くの人にアメリカの一国主義時代が終わるかもしれないという予見を持たせ、さらにそれはアメリカ・ドルの世界的基軸通貨としての恒久性に対する懸念をももたらした。

私はさらに、イラク戦争の処理の失敗や金融危機の結果を見て、アメリカ主導型のグローバリゼーションがもはや終焉に向かいつつあり、世界が多極化の時代に進んでいると感じている。しかし現在、アメリカに代わり世界各国に対して優位性を発揮できる国は存在せず、アメリカ・ドルの代わりに世界の基軸通貨として通用する通貨も存在しない。アメリカの影響力は衰えているが、それでもこれから20-30年は世界最大の軍事国家であり、経済大国であり続けるだろう。

一方、現在の情勢においては、中国の台頭が顕著である。軍事力の拡大も著しく、経済力では世界有数のものとなっている。中国の経済規模が日本のそれを追い越すのは、そう遠くない将来であろう。

日本は、「世界の中心であり続けようと試行錯誤をしているアメリカ」と「アメリカに代わり世界各国に対する優位性を求めようと背伸びをしている中国」との間で板挟みとなったら、どのようにして政治的・経済的独立を保てばよいのか。

これは日本だけにとどまらず、アジア中小国家にとっても重要な問題である。どの国も、安全保障の観点からアメリカの軍事力には期待しているが、政治的・経済的な過剰介入は望んでいない。そしてアジア中小諸国は中国の軍事力の巨大化にも脅威を感じ、これを減らしたいものの、経済の発展・市場においては秩序正しく進歩しているように見えるので、無視することはできない。これらの状況が、アジアの地域統合を促進する主な要因となっている。

現在、マルクス主義もグローバリズムも、超国家的レベルでの経済的・政治的な影響力が弱まり、良かれ悪しかれ、様々な国でナショナリズムが台頭し始めた。

我々は、新しい国際協力体制を構築したいと考えているから、過度のナショナリズムは抑制するべきで、決まりに基づいた経済協力と安全保障の体制作りに向かっていかねばならない。

ヨーロッパと違い、アジア地域は、規模も発展段階も政治制度も異なるから、経済統合は短期にわたって成し遂げられることはできない。しかしそれでも我々は、日本からスタートして韓国、台湾、香港と続き、それにASEANと中国によって成し遂げられる、経済成長の行く先として地域通貨統合への道を目指さねばならない。

我々は通貨統合の過程で必要不可欠な、セキュリティフレームワークを構築する努力を怠ってはならない。アジア通貨統合には10年以上の年月が必要となる。そして通貨統合がもたらすであろう政治的統合にはさらに長い年月が必要となる。

ASEAN・日本・中国(香港含む)・韓国・台湾は、現在世界の国内総生産の1/4を占めている。東アジア地域の経済力と地域相互関係はより深いものとなった。それゆえに、地域の経済ブロック編成のために必要な構造は、すでに事前準備がなされているようなものだ。

他方、矛盾する国家間の既得権問題や歴史的文化的紛争のため、我々は多数の難しい政治問題があると認めねばならない。例えば日本と中国、日本と韓国間の領海・領土問題などに代表されるような、軍事的・政治的論争は未解決のままだ。これらの問題は論議されるほど感情的になり、ナショナリズムが強まるリスクが生じする。

したがって、逆説的に考え、これらの地域的な領土問題は「大きく統合する」ことで解決されうると提案する。EUの経験は、地域統合が領土問題の影響を弱めうるかについて良い事例となる。

私はその「地域統合」「集団安全保障体制」が、日本国憲法によって主張されている平和主義と多角的協力の原則を貫くため、我々が歩まねばならない過程であると信じている。それはアメリカと中国との間で日本が自身の立場における利益を確保し、政治的経済的に独立し続けるために、必要なプロセスでもある。

最後に、「汎ヨーロッパ主義(Pan-Europa)」(私の祖父である鳩山一郎が日本語に翻訳した)をはじめて提唱した「EUの父」ことCoudenhove-Kalergi(クーデンホーフ=カレルギー)伯爵の言葉を用い、締めくくりに代えさせていただきたい。

「すべての大きな歴史上の思想は、空想的な夢(utopian dream)として始まり、現実で終わった。空想的な考えが夢のままで終わるか、現実のものとなるかは、その夢の現実を信じる人の数と、実現する人たちの能力によって決まる」。

内容的には正しそうに見える部分もあるし、あえて事実を伏せ、あるいは(意図的に、それとも無意識に)誤認・誤解釈している部分も各所に見受けられる。深読みすると色々と末恐ろしい内容にも受け止められる。読者の中には突っ込みを入れたくなる、あるいは「お前が言うな」と憤る人もいるだろう。ただし内容の吟味・検証については今記事のテーマではないので、今回は避けることにする。今回は「アジア通貨統合」に関する言及があったことを確認することこそが必要だからだ。

疑問なのは、なぜこれが日本のメディアにではなくアメリカの新聞社に寄稿されたのか。そして内容的には掲載時においてクライマックスを迎えていた選挙戦に大きな影響を与えうる、重大な内容が書かれていたにも関わらず、日本のメディアでは泡沫記事程度にしか扱われなかったのか。

アメリカ紙にのみその内容を寄せるというのは、対象がアメリカであり、日本人に対してでは無いという解釈だとすれば、いわゆる「二枚舌」を駆使していたことになる。どちらの舌が本性なのか、今はまだ分からない。

一方、日本のメディアでの取り上げられ方の比重の小ささには首をかしげるところが多い。容易な解釈でも問題となりうる内容をダース単位で有しており、実際冒頭でも触れたようにさまざまな方面から疑問や批判の声が上がっている。それをあえてほとんど取り上げることなく、目立たないようにこっそりと載せてそれに留めたのは、やはり【「『報道しないこと』これがマスコミ最強の力だよ」-あるマンガに見る、情報統制と世論誘導】で解説した「報道しない」力を行使したようにすら解釈できる。仮に同じ内容を麻生首相が寄稿していたら、恐らく全紙が一面トップで報じ、連日解説の記事が展開されていたものと容易に想像ができよう。つまりは、そういうことのようだ。

日銀レポートいわく「うん、それ無理」
さて本題の「ZAR大好き」氏の提示した宿題こと、日銀関係者のワーキングペーパーシリーズの一つ、アジア通貨同盟に関するレポート(【アジア通貨単位から通貨同盟までは遠い道か(2006年11月)】)について。これはいわゆる「金融(工学)危機」が起きる2006年11月に提示されたもので、かつ日銀の公式見解ではないことをあらかじめ書き記しておく。

その上で、詳細は各自読み通してほしいが、当方が「宿題の回答」として「つぶやいた」内容は「こんなもん一年やそこらの思いつきでできるわけない。やるとすれば国家百年の計で考える必要がある」「裏技として、通貨発行権を統合する国に移譲してしまえば(あるいははく奪されれば)早期に可能。ただしそれは国家統治権にも直結する通貨発行権の放棄にもつながり、国そのものを売り渡す行為にも等しい」というものだった(原文はもう少しラフ)。

簡単に論文をまとめると、

・為替レートの安定や取引コストの低下などのメリットがある。一方でマクロ経済の安定を損なうリスクもある。
・通貨統合運動の直接的開始から半世紀ほどかかっている。
・先行研究は多いが、EUの通貨統合の際の経験などもあわせ、歴史・政治・制度環境をはじめとして検討すべき課題は多い(検討した結果、解消できるとは限らない)。
・統合過程で「通貨アタック」を受ける可能性。
・EUのユーロ圏統合が各国、あるいはユーロ圏全体に与えた影響(プラス・マイナス両面)での検討、そしてその結果による「統合がプラスをもたらしたのかマイナスとなったのか」に関する検証が不十分。
・(レポート提出時点で)各国の経済格差が広がっている状況に対する検討が必要。
・直近数年間においては、例えば「台湾・香港間」「シンガポール・マレーシア間」(2006年時点)で、共通通貨導入による影響が少ないと判断される材料が整っている。

という感じである。

さらにこの論文は2006年の時点で記述されたもので、その後現在進行系の金融(工学)危機の状況は反映されていない。ヨーロッパの現状を見れば分かるように、大規模な経済危機が世界規模で起きた場合、通貨統合体は「各国の体力をひとまとめにしているので打たれ強い」ようにも見えるが、その一方で互いが足を引っ張るような形が継続しており、難局からの脱出が難しい状況にある。たとえるならば中国の古代史・物語の「三国志」における赤壁の戦いで魏の曹操軍が用いた「連環の計」(船同士を鎖で結んで安定感を高める)をしたところ、火が全体に燃え広まってしまい手がつけられなくなったような状態だ。

「夢」という言葉にはいくつかの意味がある。「目標」と同義を成し、人生をはじめ様々な過程において突き進むべき道しるべとなるものだ。一方、睡眠時に見ることになる「現実のように感じられる体感現象」もまた「夢」と表現される。こちらの「夢」はあくまでも自分の心の内にのみあるもので、現実や目標とはまったく別のもの。さらに夢には「夢想」という言葉もある。「すべての大きな歴史上の思想は、空想的な夢が実現したもの」は事実だが、同時に「空想的な夢のすべてが実現するとは限らない」。ましてやその「夢」が表一辺倒のものでないとしたら……。解釈は各自にお任せするとしよう。


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